郡上街道
岐阜市加納から郡上八幡、白鳥を経由して石徹白
(いとしろ)の大師堂に至る街道である。石徹白は白山の麓に位置し、そこへ向かった郡上街道は白山信仰の道でもあった。
(岐阜県教育委員会「歴史の道 調査報告書」より)

郡上街道は長良川の谷筋に沿った街道で、美濃市から郡上八幡の間長良川は深い谷を刻み、なおかつ蛇行している。街道は峠越えや川渡しでこの地形に対応していた。

ルート
岐阜市-関市-美濃市-郡上市美並町-郡上市八幡町-郡上市大和町-郡上市白鳥町-石徹白


郡上街道

NO.   歩いた区間  歩いた日 歩いた道  見どころ
 その1 JR「岐阜」駅~加納宿~長良川鉄道「関」駅  2019年2月11日 郡上街道 
国道156号線 15㎞
 美濃の山並み
その2 長良川鉄道 「関」駅
~長良川鉄道 「洲原」駅
2019年4月21日 郡上街道 15㎞ 洲原駅
 その3 長良川鉄道 「洲原」駅
~長良川鉄道 「赤池」駅
2019年5月19日 郡上街道 13㎞ 日本真ん中センター
 その4 長良川鉄道 「赤池」駅
~長良川鉄道 「自然園」前
2019年6月23日 郡上街道 国道156号
16㎞
稲荷神社
 その5 長良川鉄道 「自然園」前
~長良川鉄道 「白鳥」駅
2019年7月15日 郡上街道 16㎞ 山田庄
その6  長良川鉄道 「白鳥」駅
~長良川鉄道 「北濃」駅
2019年8月31日 郡上街道 6㎞ 北濃駅
 その7 長良川鉄道 「北濃」駅~ 郡上市石徹白 白山神社 2019年 9月15日 郡上街道 16km 石徹白


郡上街道編

第一回 2019年2月11日  梅林公園の梅はちらほら

3人で開催したこの回、2人は都合で途中の梅林公園まで。私もそこまでしか行ってないので報告文を書く資格はないので、今回は司馬遼太郎「街道をゆく」から美濃路を紹介している文章を転記して報告文としたいと思います。参加いただいたTKさん、NYさん、すみません。(右の写真は美濃路加納宿)

「車の中で地図をひろげた。すでに岐阜市を過ぎている。美濃路を北へ走っている。美濃国というのは野の広さよりも空の闊(ひろ)さが印象的である。かつて『国盗り物語』という小説を書くためのこの地でしばらく滞留したとき、金華山の山頂に登っても、墨俣の河原を歩いても、最初景色のとりとめのなさに閉口した。そのうち空の大きさと雲の湧く模様のうつくしさに気づき、空を見ているうちに、野も山も空の仮の映えのように思えて、日本史上、もっとも戦乱の多かったこの地の気分がわかるような気がした。郡上・白川街道は72年10月から73年5月にかけて週刊朝日に連載された「街道をゆく」の一部で、「街道をゆく」シリーズ4巻にまとめられており、今から50年近く前の美濃の国の印象を記しています。たしかにとりとめがないと言えばとりとめのない空間が続いていく加納宿あたりでした。しかし金華山や水道山が近づくと少し印象が変わると思えるのですが、そこは見方、感じ方です。

「街道をゆく」は車で街道を走り、ポイントポイントで下車しての印象が記載されています。次のポイントは郡上街道と飛騨街道の追分にある道標についてです。

「岐阜市をすぎて丘陵地帯を10キロばかりゆくと、小屋名(おやな)という小さな村がある。あたりには川筋が錯綜し、どれが長良川なのか、武儀川なのか、それとも津保川なのかよくわからず、それらの河川が氾濫してやがてつくられた小盆地というような景色である。

 『追分』とも、むかしはよばれたらしい。
その呼称のように、街道が幾筋もこの小さな村に入りこんでいる。村のそばに、鍛冶の町の関へゆく二車線ほどの白い街道が走っていて、レールがそれに沿っている。名鉄美濃町線というらしい。石柱の古い道標が立っていた。草を踏んで道標に近づくと、明治十八年七月に建てられたらしい。

『美濃国武儀郡小屋名追分』(略)

 『右 飛騨街道 関まで一里 高山まで三ママ里』
 とある。別の面には、
 「左 郡上街道」とあって、われわれはこの郡上街道をゆくことになる。」

とあります。左の写真は関あたりのとりとめのない景色です。
次回はこの道標あたりを起点に、長良川の景色を楽しみながら奥美濃郡上方面へ行きます。





田駅の長良川鉄道の車内で今日のメンバー四人が揃いました。TKさんNNさん、MAさんそれに私、60代後半の4人です。

駅前の関文化会館の西側の道を北進します。道は幅員45メートル、春祭りがおこなわれており、若い衆が神輿を担いで街道めざして練り歩いていました。家並みをすぎると平地に田畑が広がり、その田畑を海と見立てるとリアス式海岸のように山が林立する美濃の風景です。

下有知中組あたりで国道156号線に合流し、東海環境道路と東海北陸道の2本の高速道路の高架下を通り過ぎました。東海北陸道を過ぎた先で県道に入り、美濃のうだつの上がる町並みを目指します。この辺りの町名は千畝町。

美濃市街のお菓子屋さんでジュースを求めつつ、うだつのある街並みはどの通りでしょうかと聞くと、店の前の通りでもいいし一本北側の通りでもいいよ、と商品ケースの内側から教えてくれました。店の外へ出て指さしながら教えてくれる図を期待したのですが、残念でした。

教えてもらった道に行くと、見事な商家の建物が並んでいました(右の写真)。軒先に椅子を置いてある休憩所で岐阜県のアンケートに答え、お団子を食べて休憩です。

美濃は和紙の町、和紙アートの広報施設などを覗きながら、昼飯を食べる場所を探して進みます。古い町並みを過ぎて再び国道と合流して、少し行くと「道の駅」がありここで昼食にしました。カラオケ大会開催中のホールを抜けると、曽代用水と長良川を臨むテラスにテーブルと椅子があり、さらに灰皿まで置いてあります。少し前は満開であっただろう桜の木を見ながらゆっくりと昼食を楽しみました。

 昼食を終えしばらく歩くと、道は国道を離れ曽代の集落の中の用水沿いの道になりました。道路管理者的視点からは、ガードレールの設置位置に問題のある場所もありましたが、水はとてもきれいでした。集落が途切れるあたり、道が国道と合流する少し前に「世界かんがい施設遺産 曽代用水」という案内板が立っていて、用水のいわれがありました。地元有力者が私財で設置した農業用水とのことでした。

 国道と合流した後、高校生の自転車通学の邪魔になりましたが、狭い歩道を長良川沿いに上流へ進みました。「湯の洞温泉駅」近くをすぎてまだ1230分、余力はあり洲原まで行けそうです。やがて道は国道から離れ、大きく蛇行する長良川の左岸を進みます。 (右の写真は蛇行する長良川)
朝と夕方にバスがありそれで通うのだそうです。昼の時間帯にも1本、乗る人が予約すれば運行しているバスがあるのですが、日曜、祝日は運行しないそうで、今日は運行除外日。おかげでわれわれは、この会始まって以来だと思うのですが、帰りにタクシーを呼びました。タクシーの運ちゃんの話では、中学生が一人、通学にバスを使っているそうです。また、この冬の積雪は2mもあって、珍しいことだそうですが厳しい生活が偲ばれます。村内に商店の看板は見られるのですが、営業している気配はありません。昔は生活に必要なものは一通り揃ったそうですが、それが移動スーパーになり、やがてそれもなくなったそうです。
中在所の集落をこえて北へ進むと道路に注連縄が張ってあり(写真右)、その先に白山中居神社があります。参拝者は車で門前まで来て、参拝を済ませていました。門前にはコミセン利用の土産農産物直売所や、往時は旅館だったであろう大きなが建物があり、参拝者もそれなりにいて、今日はわりと賑やかだったと思われます。

 境内で、われわれより少し若い3人姉妹の話を聞くことが出来ました。彼女たちのお父さんは、上在所というところに子供のころ住んでいたそうで、おじいちゃんとおばあちゃんはここの人なんだけれど、お父さんが子供のころ越前の大野に引っ越したそうです。自分たちは父の故郷ということで小さい頃何度か来たが、すっかり変わってしまい、今日はお母さんとドライブで大野からぶらりと来てみた、ということを話してくれました。

 石徹白は今でも、越前にも美濃にも近くて遠い場所だとわかりました。


タクシーを頼むと到着まで1時間半かかるかもしれないとのことだったですが、運ちゃんが頑張り、1時間で来てくれて地方都市の苦労を聞きながら、北濃まで帰りつきました。

石徹白への郡上街道は終わります。長良川の流れと、郡上八幡の賑わいと、鮎パークのアユの塩焼きと、天上の石徹白白山中居神社が印象的な街道でした